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監督 呉乙峰(ウー・イフォン) 配給 シネマトリックス |
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台湾ドキュメンタリー界の重鎮・呉乙峰監督が4年の歳月をかけて完成した、生命の意
味を問う渾身作。
1999年9月21日台湾大震災の直後、カメラを携え呉監督が率いる映像 製作集団「全景」のメンバーは被災地に急いだ。呉監督は震源地に近く、もっと
も甚大な被害を受けたとされる九分二山で今回登場する7人4組の被災者家族に出会い、
ひたすら彼らのそばで力になるよう寄りそった。テレビ局などの報道関係者が次第に引き
上げていくなか、全景のメンバーは現地に残り共に生活を続け、悲しみを目の当たりにし
た。彼らが自然に話してくれることを待ち、心の動きをつぶさに見つめていくー。 |
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<ストーリー>
1999年9月21日に台湾全土を襲った台湾大震災。マグニチュード7.3の激震がもたらした のは2500人以上の行方不明者と死者だった。土砂は容赦なく家屋を飲み込み、緑溢れる九分二山は一晩にしてあとかたもなく土にかえってしまった。
家族や家族の遺品が見つかるのでは? 南投県・國姓郷・九分二山被災者収容センターに
寝泊りし、人々はがれきの山に通い続ける。3週間たっても家族は見つからない。あてども
なく、ブルドーザーが掘り起こしては出てくる遺品らしきものに一縷の望みを託し待つ遺
族たち。日本に働きに行っていた藩順義・張美琴夫妻はすぐ台湾へ帰国、美琴の兄・張國
揚、呉玉梅夫妻と共にうずもれた家族を探す。49日を過ぎ捜索が打ち切られ、周明純・明
芳姉妹は家族を見つけることができず九分二山から離れる。一家のほとんどが帰らぬ人と
なった羅佩如も親族の捜索を10日間延長してもらうが、見つけることができなかった。
突然家族を失うという大きな喪失感を抱えながらどうやって人は暮らすことができるのか? 明るく楽しかった監督の父親は、いまはすっかり生きる気力を失い宜蘭の老人ホームに暮らしている。目の前にいる父に対して何もできないといういらだち。家族に対する引き裂 かれるこの思いには終わりがあるのだろうか?
何かが失われてしまった自分自身を再び感じるためにも手紙はしたためられる。人々は 絶望の淵にありながらも“生命”の脈打つあたたかさを感じることができるのだろうか。
あなたにとって生命とは?
陳水扁台湾総統も感涙。台湾でまきおこった“『生命』旋風”
台湾と神戸 震災復興へはせる人々の思い
本作は山形国際ドキュメンタリー映画祭2003での優秀賞受賞ほか、ナント三大陸映画 祭2003で観客賞受賞など海外での評価も高く、台湾国内での上映を待望されていたが、 「全景」全体で取り組んでいたプロジェクトのため公開は先延ばしになっていた。 (※下記参照) そして台湾大地震より5年たった2004年9月に台北で満を持して公開を迎えた。公開 時に現台湾総統の陳水扁氏が来場、絶賛のコメントをテレビで流したことがネット上での 評判やクチコミとあいまって、問い合わせの電話が「全景」事務所に鳴りやまず、観客も会 場に殺到。反響の波は公開の延長、また台北の別の劇場が『生命(いのち)?希望の贈り物』のためにス クリーンをあけるまでに及んだ。『生命』への熱気はいまだ冷めやらず、2004年の国内台 湾映画興行収入ナンバーワンとも目されている。その後も高雄などと上映は続いている。
来年の2005年1月17日で阪神淡路大震災から10年を迎える。同じ被災地同士として情 報交換や交流を深め、震災復興を進めてきた台湾と神戸。台湾・神戸双方からの被災地住 民と専門家・行政・ボランティアが中心となって企画された「台湾?神戸 震災被災地市 民交流会」が、5年目の節目を迎えた2004年9月に台湾で行なわれ、2005年1月には神戸 にて開催される。そのイベントでは『阪神大震災 再生の日々を生きる』(青池憲司監督/ 2000年)と共に『生命(いのち)』が上映される予定である。
「全景」のメンバーは被災地入りした直後「人びとがこの未曾有の災害と向かい合う姿を、様々な角度 から後世に伝えなければならない」と判断。テーマを7つうちたて、それぞれ並行して作品を製作、7 本すべてでひとつの完成形とし、その総体での展開を意図していた。『生命(いのち)』はこの「全景」 のプロジェクトの最初の作品として2003年春に完成したが、この時点では他の6作はまだ製作中のため台湾での公開は遅れていた。2004年の春に呉乙峰監督の新作『天下第一家』を含めた3作が完成、 残りの3作も完成のメドがついたため台湾国内での上映活動が具体的に動き出した。「創作を人びとの 生活現場へ回帰させること」を活動の信条とした「全景」の作品製作と上映運動の野心的な試みは続く。
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<登場人物>
夫:藩順義(パン・シュンイ)、妻:張美琴 (チャン・メイジン)
1992年に結婚、1994年に夫婦で日本へ。震災時は東京・新宿の中華料理店で働いて台湾にはいなかった。震災後台 湾に戻り、当時8歳と6歳の息子たちと美琴の母親が亡くなった現場を目の当たりにする。美琴の兄・張國揚の娘の 遺体捜索を手伝った後日本へまた戻り、震災時になくなってしまった結婚記念写真をふたりで撮りなおす。
姉:周明純(チョウ・ミンチュウン)、 妹:明芳(ミンファン)
姉妹ふたりは、震災前、家族とは別に生活をして、姉はミシン工場で妹はレストランで働き家計を助けながら夜間学校へ通っていた。被災者センターを出た後、学校に行くため霧峰へ。その後学校を卒業して、それぞれの恋人と一緒
に生活。妹の明芳は男の子を出産した。
夫:張國揚(チャン・ゴーヤン)、妻: 呉玉梅(ウー・イユメイ)
震災時は高圧鉄塔の土台を掘る仕事のため家を離れていた。仕事を始めた当初、國揚は周姉妹の父親と仕事を共に
していた。震災で次女・維維(当時2歳)を亡くす。國揚 は美琴の兄。被災者センターで、最後までみつけることの
できなかった維維の遺体を発見し、長女だけを参加させ葬 儀を行なう。その後、女の子を出産。
羅佩如(ロー・ペイルー)
当時23歳、呉監督と同じ逢甲大学の4年生。父、母、兄、 祖母、叔父、叔母、フィリピン籍の看護人を震災で失い、一家のうち警察官の次男と彼女だけが難を逃れた。家族の遺 体は見つからない。その後結婚を控えた兄と台中に暮らし、草屯へ転居。1年2ヵ月後の地震記念公園建設着工の 際、祖母と看護人の遺体だけ発見された。一度は兄に反対 されてあきらめた留学を再び決意し、NYへ向かう。 |
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『生命(いのち) 希望の贈り物』について
われわれが強い感銘を受けたのは、突然地震という致命的な自然災害の被害 を受けた人々の意識に何千年もの間に培われた哲学が再び噴出し、蘇ってくる 感覚をこの映画が感じさせたことである。不在なるもの、消失してしまった 家、家族、持ち物、被災者らがその現実に向き合い、どうやってこれから生きていくかを彼らが学ぶなか、死者が夢の中に現れ、生き残ったものに語りかけ る、目に見えない力のリアルな圧力をそこに感じるのである。
またこの映画の「音楽性」にも敬意を表したい。重層に組み込まれた幅のある構造が喪の過程における被災者たちの感情の起伏を適切なリズムで我々に伝 える。生への回帰、生の回帰についての希望を感じさせる映画である。
──YIDFF2003 インターナショナル・コンペティション優秀賞受賞時の審査員講評 |
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呉乙峰(ウー・イフォン)監督と「全景」
1960年、台湾、宜蘭県生まれ。逢甲大学に入学するも映像演劇を志し中退、中國文化 大學演劇学科に入学、卒業。兵役を終え就職。そこでテレビシリーズ『百工図』を製 作、さまざまな職場で働く労働者を描き台湾各地を取材してまわる。1988年にインディ ペンデントのドキュメンタリー製作集団「全景映像工作室」 (以下:全景)を仲間と共に設立。1949年から1987年まで戒厳令の敷かれた台湾でのドキュメンタリー製作は 社会に認知されない閉ざされた状況に置かれていた。
その後の民主化の波にもまれ急激 な変化を遂げるなか、「全景」は台湾ドキュメンタリー史を築く重要な役割を担い、またそれは彼らが公共メディア運動を興していったことと軌を一にしている。
製作したテ レビドキュメンタリーシリーズ『人間灯火』(1990)は台湾テレビドキュメンタリー史
上の名作のひとつと名指され、放映後、自分でも撮りたいという若い人たちの要望を受
けたのをきっかけに、1991年から移動型映画ワークショップ「地方記録撮影工作者訓
練計画」を全景で実施。映画製作の垣根をはずすべく台湾全土あらゆる団体にコンタク
トをとりながら活動している。ソーシャル・ワーカーや聴覚障害者、環境保護活動家、
先住民など、さまざまなバックグラウンドの人々が学び、作品を発表していった。ワー
クショップは台北、花連、台中、高雄を、それぞれに半年かけてまわる。台湾の「行政
院文化建設委員会」が「全景」のこのような活動を支持。同委員会の経済的な支援を得
て、1996年に名称を「全景伝播基金会」に変更、参加メンバーに作品製作の支援と資
金調達を提供している。呉はその代表。現在、台南藝術学院の音像記録研究所にて教鞭
を執る。また、同学院音像媒体センターの総監も務めている。
<フィルモグラフィー>
1990 |
『月の子供たち』
YIDFF '91上映 |
先天性色素欠乏症(アルビノ)の人々を見つめた心暖まるドキュメンタリー。「あなたはどこの国の人ですか?」と聞かれる彼ら。その周辺から差別についてまたは人種上の、民族上のアイデンティティーに及ぶまでの社会的な疑問を浮き彫りにした作品。 |
1997 |
『陳才根と隣人たち』
YIDFF'97、99上映 |
かつて国民党の中国大陸からの撤退にともない台湾へ渡った7人の老人たちの今の暮らしを記録。それぞれに異なる老人たちの事情と心のうちを巧みに引 き出した作品。 |
2003 |
『生命(いのち)?希望の贈り物』 YIDFF2003上映 |
2004 |
『天下第一家』 |
震災復興中、メディアや支援団体の目を引くことの なかった小さな町で、ある集合住宅そのものに欠陥があったことが露呈する。「天下第一家」はそのマンションの名前。建設業者との間でいまだに裁判闘争が続いている。
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現実とは残酷な鏡に似ている。現実の世界では、人は不合理にも打開不可能な状況に身を置くことがあるが、その状況と闘うべくすべての力を奮い起こした時、それが突然、煙のように消えていくこともある。
幸運にも、私たちは時に、現実の中に暖かさを見つけることがある。その暖かさがあるために、人は息をつき、人生という旅を続けていけるのだ。
ドキュメンタリーとは、追憶、記憶、夢、フィクション、そして真実にほかならない。つまり人間の生命そのものなのだ。
──呉乙峰(「YIDFF2003公式カタログ」より) |
参考文献:(吉井孝史/neoneo通信2004年7月15日号「上映活動に向けて動きだした全景の被災地ドキュメンタリー映画」) |