1000年の山古志
〜 中越大震災と闘った小さな村の物語 〜」


2009年/日本/カラー/120分/DV

公式サイト

<スタッフ>
企画 武重邦夫 青木勝

プロデユーサー   武重邦夫  関正史  川島正英

監督 橋本信一

音楽 森拓治 長谷川 光
ナレーター    長谷川初範

撮影 松根広隆
録音 塩浜雅之  田邊茂男
編集 小島俊彦
オンライン    小浜好洋
助監督      島田隆一
技術アドバイザー  小林弘典 
構成       橋本信一 武重邦夫 島田隆一
アドバイザー 吉村秀實 平井邦彦
タイトル題字 関秀泉
ポスターデザイン  高橋秀明
ポスター写真原画    中條均紀
WEBデザイン  南部礼
予告編制作     島田隆一
ロケ宿舎協力     星野三代治 小池ミツエ
制作事務       関信一   関涼子 
制作デスク      春山薫子  荻生恭子
編集スタジオ     岡安プロモーション
オンライン      グットジョブ
ナレーション録音   ワンダーステーション 杣澤佳枝
音楽録音     昭和音大スタジオ
音楽コーディネート  プレルーディオ
MA       BOOK
整音       塩浜雅之
整音助手      大島健太郎
撮影機材     シネマユース
制作協力  「掘るまいか」上映推進委員会
        社団法人・北陸建設弘済会
         財団法人・山の暮らし再生機構
         kawasakiアーツ
        国際交流基金
        「シドニー日本文化センター」
        「映像のまち・かわさき」推進フォーラム
映像提供 長岡市山古志支所
       長岡地域復興支援センター
       「山古志サテライト」
       椛蜍v保土建
       NHK・アーカイブス
        防衛省陸上自衛隊東部方面総監
       新潟県防災局危機対策室
       社団法人 北陸建設弘済会
        国土交通省 湯沢砂防事務所
       NPO法人 砂防広報センター
       神奈川大学 日本常民文化研究所
       読売新聞社 片桐恒平 須藤護
音声提供 長岡市消防本部、
        小千谷市消防本部
劇中歌「ありがとう」   原詩 山古志小学校文集
               編詩・作曲 黒坂黒太郎
特別協力   
 映画制作基金に寄金して戴いた全国の皆さん 

企画 Takeshigeスーパースタッフプログラム
    中越大震災山古志復興記録映画制作基金
製作 「1000年の山古志」制作委員会
    NPOスローライフジャパン
     シネマネストJAPAN
協力 新潟県 長岡市 日本映画学校
特別協力  旧山古志村・住民の皆さん
        山古志災害ボランティアセンター
        山古志住民会議


<ストーリー>
2004年10月23日、新潟県中越地方を襲った中越大震災は長岡市と合併寸前の山古志村を全村崩壊させた。山が崩れ、川に土砂が流れ込み集落を水没させた。田圃や養鯉地の底がぬけ、牛舎が倒壊し多数の牛たちが死んだ。コンクリー道路がめくれ上がり、住居は軒並みに全壊半壊し、電気や水道のライフラインは息を止めた。地震発生の翌日、当時の村長・長島忠美は全村避難を発令して住民達は自衛隊のヘリコプターで長岡市へ避難した。「もう、山古志へは永久に戻れないかも知れない」ヘリの窓から見える山古志村の惨状に人々はそう思った。

中越大地震は阪神大震災の経験から国が想定していた防災活動の枠を大きく超えるものだった。中山間地の災害は都市災害とは性格を異にする。特に山古志の場合は、山の斜面崩壊と芋川の氾濫による集落水没が重なり、排水作業のために未曾有の土木技術と膨大な作業員が必要とされた。国と県と市が一体となって取り組んだ復興作業も困難の連続だった。
2年続きの豪雪が山古志を襲い、工事が思うように進まず、全ての資産や仕事を奪われた住民達は避難用の仮設住宅の中で人生の岐路に立たされた。故郷への想いに後ろ髪を引かれる気持の中で、30%の人たちが村を離れ他の地域に移住した。2006年の春から、山古志は徐々に避難解除され、住民達は仮設住宅から集落へ通い住居や田畑の復修作業に取り組み始めた。それは大変な苦労だったが、少しずつ復興の兆しがみえてきた。

2007年から8年にかけて、山古志は確実に復興を進めて行った。しかし、それは単に昔の姿に戻る事ではなかった。この甚大な災害に直面したことで、住民の一人一人が自分と向かい合い「山古志へ戻る事」や「山古志で生きる事」の意味を考える事になった。
今までは、深い山間で自分たちだけで生きてきたと思っていた。しかし、震災に遭遇すると日本全国、海外の見知らぬ人たちから義捐金や励ましの声が届けられた。山古志で生きる事は、つまり、地球で生きることだったのだ。


2009年正月。震災後初めての「さいの神」の火まつりが行われた。山古志の住民も、やむなく離村した住民も、そして周辺都市からも多くの人々が伝統行事の復活に参加した。
牛の角突き、錦鯉の集荷、田植えの準備・・も始まった。子供の声や、牛の声や、虫の音も戻り山古志の空気が充満し始めた。日本の里山の原風景も戻りつつある。中越大震災が勃発してから間もなく5年目の秋が巡ってくる。あの災害は大変だったが、腰を据えて周囲の山々を見ると、先人たちが生き続けた1000年余の様々な試練の時間に思いを馳せる事が出来る。楽しい事と辛い事が長い鎖のように結ばれながら、その先端に自分たちは存在している。山古志は小さな山古志であるが、防災列島で生き抜いてきた日本人そのものなのである。

映画『1000年の山古志』の前半は中越大地震の勃発から始まり、全村崩壊で仮死状態になった集落と復興への姿を追う。中半からは、水没した集落や全倒壊した集落の人たちの直面した人生の選択を描き、人々の夫々の復活への努力の姿に光を当ててゆく。後半は幾多の困難を乗り越えた人々の達成感と喜び、復元してくる集落の姿が感動的に浮かび上がり映画は終幕を迎える。


<解説>
2003年の秋、映画『掘るまいか』のプロデユーサーの武重邦夫は山古志村の企画課長・青木勝に映画『永遠の山古志』の企画書を手渡した。武重は山古志村が長岡市との合併により長い村の歴史の幕を閉じると聞き、何とかこの日本の原風景というべき村の姿と歴史時間をフィルムに残したいと考えたのだった。山古志に生まれ育った青木も全く同じ思いだった。彼には、中山隧道を掘り抜いた山古志の先人たちと同じ未来への視線が備わっていた。

翌2004年の11月、山古志村との契約をすべく武重は監督の橋本信一やカメラマン松根広隆と撮影の準備を進めていた。しかし、11月まで1週間前の10月23日に山古志は中越大地震に襲われ全村崩壊、全村避難に見舞われてしまった。撮影どころではない。武重と橋本は地元川崎の「しんゆり映画祭」の仲間を動員し、日本映画学校と川崎市民ミュージアムで山古志支援映画上映会を開き義捐金集めに奔走した。11月6日、映画スタッフが長岡の避難所を訪問。無人になった小松倉集落を撮影する。

2005年、豪雪で復興作業が進まず撮影を中断する。6月、中越大震災を基点とする新たなドキュメンタリー映画『1000年の山古志』を企画、崩壊した山古志の撮影を始める。7月、青木・武重・川島正英(地域活性化研究所代表)の3人で森長岡市長、高橋正樹副知事を訪ね撮影協力を要請する。この時点で、『掘るまいか』上映推進委員会より支援を受け撮影が続行される。8月、武重と橋本は千葉茂樹監督夫妻及び國際交流基金日本文化センターの協力を得て、シドニー市の名門劇場での『掘るまいか』チャリテー上映の活動を行うべく準備する。

11月29日。泉田県知事、森長岡市長のメッセージを持参し、長島忠美(旧山古志村村長)衆議院議員夫妻と共にシドニー上映会を行なう。撮影隊はこの上映会に参加したシドニー市民たちの「山古志住民への激励のメッセージ」を映像収録して、橋本が仮設住宅の人々に届けた。尚、この映画上映会はNHKの「おはよう日本」とBS放送、国際放送を通じて広く国内外へ伝えられた。
2006年、2年続きの豪雪の中で住民の一時帰村が活発になり撮影も本格化する。しかし、製作資金が枯渇したので、山古志有志により関正史氏を委員長に「中越大震災山古志復興映画制作基金」が設立され、全国の支援者の募金により撮影が継続された。

2007年から8年にかけて、撮影は「地震災害状況」から苦難を跳ね除けて「ふるさと」に帰ろうと努力する個々の人々の生き方へ移行する。大地震により全てを失った人たちは人生の岐路に直面し、新たな選択を迫られていた。都市部や平地の震災では在り得ない、「進むも地獄、退くも地獄」の状況だった。こうした中で、離村した人も帰村した人も、「ふるさと山古志」への望郷の念をエネルギーにして奇跡的に復興を実現して行った。

映画の基本撮影は2008年の10月に終わったが、構成と編集作業は6ヶ月に及んだ。地震災害を通して、山古志の「1000年の村の時間」へのアプローチが非常に難しかったのである。ムラの時間とは、われわれ日本人の存在の根底をなすものだと考えたからだった。親子の絆、家族の絆、隣人との絆、今日の日本社会で失われつつある「人間の絆」についての問題提起でもある。我々に力を貸してくれた全国の支援者と共に映画を作っている気持だった。

『1000年の山古志』は中越大震災からの復興への一連の記録である。日本では過去に無数の地震災害が起きているが、地震の様相と被害地の人々の精神的な苦悩や共同体そのものの復活を丸ごと記録した映画が無かった。地震災害を天災と看做し、物理的な街の景観等の復元を終焉としてきたのである。しかし、本当にそれで良かったのか? 人生の岐路に追いやられる被害者への視点が欠けていたのではないか? 本当は、物凄い努力で立ち直ろうとする人間の「意志や勇気」に目を向けることで、地震被害や防災体験を新たな未来の共通財産にしていけるのではないのか? 我々はこの映画を山古志の問題だけに終わらせたくなかった。
山古志住民の努力や勇気や誇りが、日本に無数に点在する中山間地、過疎地の人々に激励のシグナルとして発信できるのではないかと考えた。山古志発、長岡市発、新潟県発の日本全国・世界の人々への希望のメッセージである。
<スタッフ・メッセージ>
「手渡される歴史と文化力」    プロデユーサー 武重邦夫

 2004年の秋、山古志村は不幸にも中越大地震で壊滅的な被害を受けました。しかし、住民たちはそんな惨状に見舞われても愚痴ひとつ溢さず、逆に子供全員をヘリに乗せて災害直後の壊滅した故郷の姿を直視させました。
千尋の谷へ我が子を落とす獅子のように、人々は今日の学校教育とは異なる、人間が強く生きていくための先人から手渡された生活哲学を実行したのです。
かつて60年前、トンネルに挑戦した村人は完成するのに30年かかると知り落胆するが、子供や孫のためにと気持ちを切り替えて掘りつづけました。ここに共通するのは、住民たちの勇気と未来への眼差しです。しっかり足元を見つめ、時間を継続し続けてきた日本の村の文化力です。
山古志との出会いは、私たちに希望を与えてくれるものでした。山古志に生き残っているなら、この広い日本列島にはかならず幾多の「本当に良い日本」が残っている筈です。
映画制作は終わったが、次はこの映画を日本中に手渡していく・・私たちの仕事です。


「苦境の時こそ試される山古志魂」      監督 橋本信一
山古志村を襲った2004年10月23日の中越大震災。美しい故郷は、激しい地震の影響で家々が倒壊し、道路は寸断され、山はその地形を変えました。
地震後、聞こえてきた山古志はもう終わりだ、という声。あんな山の中に戻らず、街に下りて暮らせばいいのにという声すら聴こえてきました。
でも本当にそうなのか。私たちは、前作「掘るまいか」の制作時に感じた山古志の人たちの人間力を信じたいと思いました。
そして、どんな過酷な逆境におかれても、それを粛々と受け入れ、しなやかに、したたかに生きていく山古志の人々の「生きるチカラ」を描きたいと強く決心したのです。
1000年続いてきたこの村の悠久の時の流れ。
村人が厳しい困難を乗り越えてでも帰りたいと思う「ふるさと」「ムラ」とは何なのか。
この映画は山古志の人々のふるさと復興に挑む闘いの日々を通して、その根源的ともいえるテーマに迫りたいと思って制作した映画です。

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