『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』

『台湾人生』『台湾アイデンティティー』
酒井充子 監督作品
2014 年/日本/カラー/HD/80分

公式サイト

<出演>
山本方子   山本泰成   キム・インホ   ぺク・ヨンス   他
<スタッフ>
監督 : 酒井充子

エグゼクティブプロデューサー : 菊池笛人 朴炳陽 
プロデューサー : 小林恒行
日本プロデューサー : 辻本隆行 
韓国プロデューサー : 兪澄子

撮影 : 松根広隆
音楽 : 廣木光一
音響 : 菊池信之
同時録音 : 川上拓也 
編集 : 糟谷富美夫
協力 : シネマ・サウンド・ワークス 
撮影協力 :
  済州フィルムコミッション 釜山フィルムコミッション
  西帰浦市 統営市

ナレーター : 大鷹明良  速名美佐子  小林三四郎

協賛 : ギャラリー現代(韓国・ソウル)
後援 :
  駐日韓国大使館  韓国文化院
  在日本大韓民国民団中央本部
  在日韓国人信用組合協会
  在日世界韓人商工人連合会

助成 : 文化芸術振興費補助金
製作 : 天空 アジア映画社 太秦 

配給 : 太秦

© 2013天空/アジア映画社/太秦




<解説>

日本の朝鮮統治、第二次世界大戦、南北分断、朝鮮戦争、
激動の歴史に引き裂かれながらも貫かれた70年の一途な愛を描く。

韓国の国民的画家として愛されている故イ・ジュンソプ(李仲燮)とその妻、山本方子(まさこ)の「愛と信頼」の物語。

 「韓牛」の絵で著名なイ・ジュンソプは苦難の時代を生き、死後に伝説となった悲運の画家である。第二次世界大戦中に東京の美術学校で出会い、現在の北朝鮮の元山で結婚したイ・ジュンソプと山本方子。国の違い、民族の違いを乗り越えて愛し合い、共に生きることを願った二人だったが、朝鮮戦争の戦火と貧困に追われ、日本と韓国の地で離れ離れの人生を歩むことになる。

イ・ジュンソプは、家族とともに暮らす願いも叶わず、済州島・西帰浦での生活の思い出を胸に39歳の若さで夭逝してしまう。
夫を亡くしたとき34歳だった方子は、日本で二人の子供を育て上げ、現在、東京の世田谷で暮らしている。92歳となった方子が声高に語ることはない。しかし、彼女の柔和な表情や静かに語られる言葉から、人間への限りない信頼、ジュンソプへの愛を貫いた誇りが、私たちに響いてくる。





<ストーリー>

「わたしの大切な大切なあなたへ」「いつも君だけを心いっぱい」
ふたりは200通にも及ぶ手紙で心をつないだ。再会を待ちわびながら…。

1941年、方子は文化学院の廊下で筆を洗っているときに、先輩のジュンソプと知り合う。意気投合した二人は、喫茶店や公園でのデートを重ねた。韓国が日本に統治されていた時代、朝鮮人と日本人の恋愛は、当時の日本では稀であったが、方子の両親は二人を温かく見守っていた。
1943年、ジュンソプがソウルでの展覧会を機に一時帰省するが、戦況が悪化し、東京に戻れなくなってしまう。1945年3月、方子は博多から釜山に渡る。連絡船がアメリカの攻撃で沈没したあとだったにもかかわらず、方子は危険を顧みず約束の地を目指した。釜山から列車でソウルに入り、約2年ぶりにジュンソプと再会する。ジュンソプの故郷、元山で朝鮮の伝統に則って二人の挙式が行われ、イ・ジュンソプの妻イ・ナムドクとなった。
しかし、長くは続かなかった。1945年8月15日、日本の植民地支配から解放された喜びも束の間、38度線による南北分断の混乱のなか1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。12月、方子たち家族は南へ避難する。戦火を逃れることはできたものの、難民としての貧しい生活が始まった。はじめは釜山、そして済州島へ。そして1952年、方子は体調を崩した子供たちを連れて日本人送還船で日本へ。韓国と日本で別々の生活が始まる。時代に翻弄されながらも二人は再会を信じて疑わなかった。
2013年5月、方子は車イスの旅に出た。春のソウル(韓国)。市内の「ソウル美術館」。ジュンソプの絵と向き合う方子。ジュンソプが好んで描いた牛だ。彼は朝鮮民族の象徴とも言われる「韓牛」の絵を数多く残した。
金仁浩(キム・インホ)さん。86歳。朝鮮戦争時、北朝鮮の元山から南に避難するときに一緒だった。それまで緊張しているように見えた方子の表情が、キムさんと会ったとたん一気にゆるんだ。笑顔で語り合う二人。キムさんはとても流暢な日本語だ。戦前の朝鮮で日本語教育を受けて育った。

2013年夏、済州島。南部の西帰浦(ソギポ)は、朝鮮戦争当時、難民として避難し、11か月間を過ごした場所だった。貧しい生活ではあったが、親子四人が身を寄せ合って暮らした日々は、方子とジュンソプにとってかけがえのない思い出となった。おだやかな海が方子を迎えた。
2013年秋、画家のぺク・ヨンスは自らのアトリエでジュンソプの思い出を語る。ともに新写実派に参加したこと、晩年のジュンソプへの労り。
日本と韓国のあいだに国交がなかった時代、人の往来は制限されていた。(1965年の日韓基本条約まで)。離れ離れになった家族に宛てて、ジュンソプは毎日のように手紙を書いた。明るく希望に満ちた文面に方子や子供たち、自分の絵を添えた。一方でジュンソプ自身の体調はどんどん悪化していったが、方子は知る由もなかった。1956年、ジュンソプ死去の知らせを受ける。方子はこのとき34歳。偉大な画家はその才能を十分に評価されないまま39歳の若さで亡くなった。彼の絵が認められるようになったのは1970年代になってからである。

方子はジュンソプの死後、世田谷の実家で息子二人を女手ひとつで育て上げた。
ジュンソプの死に際し、二人の子どもたちには哀しみの姿を一切見せなかったという。
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