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<スタッフ>
製作 : 工藤 充
演出 : 羽田澄子
演出協力 : 佐藤斗久枝
撮影 : 相馬健司
整音 : 滝澤 修
ピアノ : 高橋 アキ(サティ・ピアノ音楽全集)
撮影協力 : 河戸浩一郎
演出助手 : 山田 徹
MA : アオイスタジオ
助成 : 文化芸術振興費補助金
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協力 :
旅順口区人民政府、日中児童の友好交流後援会
中国国旅(大連)国際旅行社
板倉哲郎、大倉孝三、香山磐根、松田吉正
仲 偉江、岩尾光代
表現 [hyogen](歌唱協力)
資料提供 :
朝日新聞社、毎日新聞社、読売新聞社、
国立国会図書館、
霊玉会編集委員会「ふるさと旅順」、
寺村謙一
編著「回想の旅順・大連」近代消防社「旅順大連探訪」、
自由学園資料室
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<コメント>
なぜ今 「遙かなるふるさと-旅順・大連―」 なのか・・・
羽田 澄子
私は1926年1月3日、大連で生まれました。大正15年・昭和元年でもあります。父は大連の弥生高等女学校の教師でした。
大連は中国東北部の最南端、関東州の都市で、日清戦争に勝利した日本が清(中国)から租借したのですが、そのことに反対する、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって清に戻され、ロシアが租借してしまいました。帝政ロシアによって大連の街は建設されました。しかし、このロシアの態度に反対する日本との間で、日露戦争が始まりました。烈しい戦いの結果、日本が勝利し、関東州は日本が清から租借し、その後、太平洋戦争で日本が敗北するまでの40年間、日本が支配したのでした。大連にはロシアから権益をとった南満州鉄道の本社もあり、日本人の支配する社会が、構築されていました。約60万人ともいわれた大連の人口のうち約20万人が日本人でした。
私は母が20才のときの子供です。大連には母方の親戚が大勢いて、殆どが満鉄関係者でした。私が3歳のとき父は三重県津市の女学校に転勤、しかしその数年後、今度は旅順の女学校に転勤しました。旅順は重要な軍港で、日露戦争の激戦地になったところです。
私は旅順の小学校と女学校を出ています。父はその後、大連実業学校に転勤、家は大連に移りました。1945年8月15日、日本の敗戦は大連で迎えました。19歳でした。日本に引揚げてきたのは、その3年後、22歳のときです。もはや戦後65年以上の年月がたち、私も東京の暮らしが60年を越えています。にもかかわらず、最も懐かしく故郷と思うのは、多感な少女時代を過ごした旅順そして大連なのです。
しかし、敗戦後、日中の国交は断絶し、ながく故郷を訪れることはできませんでした。1972年に田中内閣によって国交が回復した後も、旅順は中国の重要な軍港であるために、外国人には未開放でした。私は「旅順の映画」を作りたいという想いを持ち続けていましたが、夢にすぎませんでした。1990年代に入って、部分開放されたものの。自由な行動は制限されていました。全面開放されたのは、2009年の秋ごろからです。
2010年になって「日中児童の友好交流後援会」が、開放された旅順へのツアーを企画していることを知って、後援会に撮影が可能かどうかを相談しました。そして、可能と知ったときの嬉しさ。しかし、私は体調が、ロケーションに耐えられるかどうかという不安がありました。1年余り前に心筋梗塞をしていて、さらに膝の関節を痛めていたからです。でも、スタッフが充分なサポート態勢を作ってくれたので、プロデユーサーの夫もロケーションに踏み切ることを許可、ロケーションが実現しました。
私が旅順を撮りたいと、長く執着していた大きな理由の一つは、旅順の街の美しさです。旅順には新市街と旧市街があり、旧市街は商店街でしたが、新市街は美しい住宅街でした。道路は広く、どの道にも車道と歩道がありました。帝政ロシア時代のロシア風建築が多く、日本時代の建築も、日本内地の家とは異なり、街の雰囲気をこわさない洋風の建築でした。歩道にはアカシアの並木が続いていて、初夏から秋口まで街は緑に覆われるのでした。小説「アカシアの大連」(清岡卓行 著)は有名ですが、旅順・大連で暮らした人にとって、その心に最も強い印象を残しているのは、アカシアです。美しいアカシアの並木に囲まれ、広々とした土地に、優雅なロシア建築が点在する街の姿を、私は忘れられないのでした。
もう一つの理由は、この旅順での生活が私の家族にとって、最も穏やかに、幸せに暮らせた時代だったということです。父は旅順高等女学校の教師で40代、母はまだ30代、私は小学生から女学校を卒業するまで、1人の妹は小学生でした。しかし時代は、日本が戦争の拡大へと向かっていく時代でした。私が小学生になるころ、満州事変がおき、満州国が建国されました。旅順の小学校に転校した年に、日中戦争が始まり、太平洋戦争が始まったのは、女学校の4年生のときでした。この後、父の転勤で家は大連に移りました。私は旅順の家から東京の学校に入り、東京大空襲も体験。1945年4月に卒業。敗戦は大連で迎えたのでした。旅順での穏やかで幸せな暮らしは,今思えばほんの僅かな年月だったのです。旅順は私にとって、「美しく、懐かしい思い出の地」です。しかし悲しいことに旅順を簡単に「懐かしい故郷」ということができません。何故なら旅順も大連も本来は中国の土地なのに、日本人が支配し、中国人は下積みの労働をさせられる社会が構築されていたのです。日本人は中国人に下働きをさせて、いい暮らしをしていたのです。単純に懐かしいとは言えないのです。
旅順は日清・日露戦争、40年にわたる日本の支配、さらに日本の敗戦とその後のソ連の統治、といった複雑な歴史を経ています。この作品に向き合って、旅順という土地に、何層にも重なる歴史の重さを、改めて考えさせられ、表現の難しさを痛感することになったのでした。
撮影はツアーという限られた条件のなかで、努力をすることになりました。しかしツアーであったから恵まれたこともあったのです。ツアーに参加したメンバーの多くは、私と同じように旅順を懐かしむ人達で、日露戦争の戦跡、一緒に育った学校や家など、思い出の場所を歩き、記憶をたどるのでした。私はこのツアーで日本人が知ることのなかった歴史を知ることもできたのでした。ツアーの性格上、撮影は旅順が中心となり、大連は限定されたスケジュール内での撮影になりました。
いまや旅順も大連も目覚しい発展を遂げ、帝政ロシアや日本の時代に造られた都市の風情は大きく変わっています。そこには、日本人が懐かしむ旅順・大連の姿ではなく、活気あふれる中国の旅順・大連。そして明るい中国の人々の姿があるのでした。
私はこのツアーで私が知ったこと、感じたことを、多くの日本人に知ってほしいと思っています。 |
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<プロフィール>
羽田 澄子(記録映画作家)
日本の女性監督のパイオニアであり、記録映画の第一人者。1950年、岩波映画製作所の設立とともに入社し、「村の婦人学級」(57)を初演出。以降、80本を超すドキュメンタリーを手がける。1981年、岩波映画製作所を定年退職後、フリーになる。「薄墨の桜」(77)で注目を集めて以降、自主製作に取り組む。主な作品は、「早池峰の賦」(82)、「AKIKO─あるダンサーの肖像─」(85)、「痴呆性老人の世界」(86)、「安心して老いるために」(90)、「歌舞伎役者 片岡仁左衛門」六部作(92~94)、「女たちの証言」(96)、「住民が選択した町の福祉」(97)、「問題はこれからです」(99)、「元始、女性は太陽であった─平塚らいてうの生涯」(01)、「山中常盤」(04)、「あの鷹巣町のその後」(06)、「終りよければすべてよし」(06)、「嗚呼 満蒙開拓団」(08)など。各作品で数多くの賞を受賞している。
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