医す者として

農民とともに――
若月俊一と佐久病院の60年。
フィルムに刻まれた「歴史」から「未来」を見つめる
HD/カラー/108分/2011年


<スタッフ>
監督 : 鈴木正義 

語り : 山崎樹範

制作 : 若月健一 小泉修吉 
撮影 : 岩田まき子 伊藤硯男 澤幡正範
      今井友樹 満若勇咲 
音効 : 園田芳伸 
共同制作 :
 佐久総合病院映画部  農村医療の映像記録保存会 

企画制作 : グループ現代
助成 : 文化芸術振興費補助金
協力 :
 佐久総合病院
 長野県厚生農業協同組合連合会
 公益財団法人 トヨタ財団
制作協力 :
 井出弘枝 井出孝 菊池智子 小林栄子 佐々木都
 川妻干将 若月俊一先生生誕百年事業実行委員会
 井出民生 井出勉 佐久総合病院 老人保健施設
 JA長野八ヶ岳 株式会社ツガミ テレビ東京
<解説>
【「農民とともに」から「地域住民とともに」へ】
長野県佐久市(旧南佐久郡)佐久総合病院。
戦後間もなく信州、千曲川沿いにある小さな病院に青年医師・若月俊一(1910-2006)が赴任したことから、この物語は始まる。周辺の農山村への「出張診療」、「全村健康管理」(今でいう健康診断を軸にした健康予防管理活動)を全国に先駆けて行ってきた。また、健康に対する啓蒙活動の一環として取り組んだ「演劇」や「病院まつり」は地域づくりにつながっていく。
昭和の高度経済成長以降の農村地域の過疎・高齢化には、いちはやく対応し、医療と福祉の垣根を越えた活動を展開し、住民のニーズにこたえる=「二足のわらじ」(高度専門医療と地域密着医療)を履き展開してきた佐久総合病院。その実践につらぬかれた志は、いまも多くの人々の心をひきつけている。しかし今、そうした活動を続けてきた佐久総合病院は再構築の時代を迎えている。はたして若月俊一が築いた農村医療の歴史は引き継がれていくのだろうか?

【~30万フィートにおよぶフィルム~】
佐久病院映画部では、1950年代から30数年にわたり、出張診療、手術、患者会、啓蒙演劇、病院まつり…など、ありとあらゆる取り組みを16㍉フィルムで記録し続けてきた。その量は約30万フィートにおよぶ。歴史的にも貴重なフィルムと、当時を知る人々、現在の病院関係者らの証言とともに、21世紀のいま、未来ヘ向けた映画としてよみがえる―――
<コメント>

疎開先の佐久育ちで若月サンに間にあった者として「医す者として」を支持します
――― 永六輔

これは戦後日本の理想を生きた人々の美しい記録です

――― 佐藤忠男 

<プロフィール>
若月俊一(1910年6月26日~2006年8月22日)
東京大学医学部卒。佐久総合病院の院長としておよそ半世紀にわたり活躍。住民と一体となった運動としての医療実践に取り組み、農村医療、農村医学の礎を築いた。また外科医として先駆的な脊椎カリエスの手術などもおこなったことでも知られる。その活動は、日本のみならず、国際的な広がりを見せ、東洋のノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞(1976年)。農民の生活に密着したフィールドワークや研究をおこない、日本のみならずアジア諸国の農村医療のモデルとなっている。

若月健一(プロデューサー)
1941年生。若月俊一氏の長男。1968年より佐久総合病院の医療ソーシャルワーカーとして活動する傍ら、映画部の中心メンバーとして記録作業に尽力。1987年、佐久総合病院老人保健施設の開設に貢献、その後も施設長として高齢者ケアの第一線で活躍。また、「佐久総合病院映画部農村医療の映像記録保存会」代表としてフィルムの再生に尽力。

小泉修吉(プロデューサー)
1933年生。グループ現代 の創設者(現会長)記録映画監督・プロデューサー。1967 年佐久総合病院・若月俊一院長の協カを得て、自主作品「農薬禍」を制作・演出。同時に記録映画制作会社グループ現代を設立。以来、佐久病院関連作品に加え、農業・環境・教育をテーマに、監督、プロデューサーとして多くの自主作品をてがけ、数々の賞を受賞。

鈴木正義(監 督)
1953年生。シネクライム代表・グループ現代TV番組プロデューサー。1986年に小泉修吉のプロデュースで佐久総合病院を舞台に16㍉フィルム映画作品を初監督して以来、佐久地方で老人福祉、高齢者の健康をテーマにした社会教育映画を多数演出。その後もフリーのディレクター・プロデューサーとして映像制作活動を続けている。
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