「小梅姐さん」

赤坂小梅生誕100年記念・ドキュメンタリー映画

あいち国際女性映画祭2008準グランプリ
アジアフォーカス福岡国際映画祭2007正式招待作品


公式サイト

<出演>
ナレーション 水谷八重子

音楽  本條秀太郎

証言して頂いた方たち(50音順)
 菊池淡狂、辰巳寿昌・寿穂
 島倉千代子、菅原都々子
 畠山みどり、原田直之
 舟木一夫、望月太八
 安井昌二  ほか、多くの方たち
< 挿入曲>
黒田節(福岡)、炭坑節(福岡)、正調博多節(福岡)、小倉節(福岡)、航海ランプ、ほんとにそうなら
会津磐梯山(福島県)、おてもやん(熊本市)、浅間の煙(長野県)、江刺甚句(岩手県)、ソーラン節(北海道)
そろばん踊り(久留米機織り唄)(福岡県)、相撲甚句、里見節(千葉県)、祝い唄黒田節(向山小梅作詞)

ショウワノジダイ トドロキワタル モウヒトツノ ウタゴエ

天性の芸能者としての資質を、芸者という生き方を選択することで開花させた、
“鶯(うぐいす)芸者”赤坂小梅。
豪胆、そして艶。その真実とよみがえる小梅節の真髄。

<ストーリー>
大正・昭和の激動の時代を、唄一筋に生き抜いた稀代の歌手・赤坂小梅の真実。

生まれ育った筑豊の風土や、芸者修行に明け暮れた北九州。激動の東京。終の棲家となった千葉県館山市。
各地にその足跡を訪ね、一方で、残された唄や映像を駆使し、関係者のインタビューなどを交えながら、唄を愛し唄に尽くした、女の生き様を描きます。

百歳まで生きて唄おう、百歳以上になっても唄っていたい。
その意気でなければダメなんですよね。
唄えなきゃ何にもなりゃしない。
唄うことが楽しいんですもの。
------ 赤坂小梅


<赤坂小梅プロフィール>
本名、向山(むかやま)コウメ。
明治39(1906)年4月20日、福岡県田川郡川崎町に、父向山権平、母(旧姓井手口)シナの9人兄姉(三男六女)の末っ子として誕生。40歳という高齢出産の影響もあってか、産後の肥立ちが悪かった母が10月に死去。
すぐ上の兄秀吉と共に長姉トセの養女となる。なお、両親は再婚同士で、このトセは父権平の、長男の松治は母シナの連れ子である。
16歳の時に自ら芸者を志し八幡市(現北九州市八幡東区)の置屋「稲本」に。通常1年間の芸者修行を3ヶ月でこなすという猛勉強で、1年で芸者デビュー、「梅若」を名乗る。
稲本の小倉市(現北九州市小倉北区)移転に伴い、同市旭町の検番「旭検」に所属。小倉に梅若あり、と唄のうまさを喧伝される存在に。
昭和4(1929)年、九州一円の民謡研究のために小倉を訪れていた野口雨情、藤井清水らに認められレコードデビュー。
同6年に上京して赤坂に移り、同8年、コロムビアから出した『ほんとにそうなら』(久保田宵二作詞、古賀政男作曲)が大ヒット。

以来、流行歌、端唄、舞踊小唄、そして上記紹介の3曲のほか『そろばん踊り』『小諸馬子唄』『長崎ぶらぶら節』など、多くの民謡を吹き込みヒットさせた。
NHK紅白歌合戦にも4回出場、その豪放磊落な性格から多くの文化人や政・財界人などに愛され、大衆から支持された。また酒豪でも知られ、恰幅のいい体型が特徴的だった。
 昭和56(1981)年4月、75歳で「感謝引退記念公演」(国立小劇場)。その惜しむ声は芸能界はもとより、政財界、文化人など各界から400人を超す発起人を集め、その存在感をあらためて示すこととなった。
 晩年は民謡の普及や福祉活動に勤しみ、平成4(1992)年1月17日午後7時24分、心不全で千葉県鴨川市の病院で死去。葬儀・告別式は、終の棲家ともなった館山市の安房自然村内不老山能忍寺で執り行われた。戒名「芸鏡院梅月麗峰大姉」。紫綬褒章、勲四等宝冠賞、日本演歌大賞特別功労賞受賞。享年85歳。
<証言より>
「何十年も歩いてこられた、それも一流のというね、そういう方しか持ち合わせていない香りっていうのは、今では多分ないんだろうと思います。」
・・・舟木一夫

「あのお体から出てくるお声で黒田節を歌われると、何気に全部後ろに行っちゃう感じがしまして、あの迫力っていうんですか。やっぱり、あのくらいの体がないと唄でみんなを吹き飛ばせないんだと思って(笑)」
・・・島倉千代子

「・・・ついていなければ、何もできない人ですからね。だからお供でいつもついて歩いていまして。そんなことっきゃできゃしませんよ。炭坑節、黒田節、そんなものが好きで、唄が好きで、声が良くて、結構なお話で、それを皆さんが大騒ぎしてくださったからこうなったんですけどね。ほんとに・・・」
・・・向山初子(小梅の姪、付き人)               
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