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〈出演〉
針生一郎
重信メイ
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鵜飼哲
椹木野衣
島倉二千六
岡部真理恵 |
大野一雄
鶴見俊輔
金芝河 他 |
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〈スタッフ〉
監督・脚本・編集:大浦信行
撮影・編集:辻智彦
録音:川嶋一義
韓国語監修:古川美佳
音楽:朴根鐘 唄:中山ラビ
制作進行:中村江位子 中村篤
韓国コーディネーター:洪成潭 兪池娜
ムーダン:蔡貞禮 姜正太 咸仁天
仮面劇:ウンユルタルチュム保存会
ナレーション:中山真利絵 武藤光司 中村江位子
演奏:李明姫 李東信
音楽録音:寺田伊織(Rinky Dink Studio)
整音:吉田一明
撮影協力:角山正樹 戸田義久
特殊効果:船越幹雄 近藤佳徳 制作協力:亀井享 初瀬洋之 白石和彌 宮本廣志
竹藤佳世 小清水史 伊藤敬治
NEO P&T 宮川未来 104co.Ltd
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協力:北川フラム 村上隆 若松孝二 山下昌子
南洋志 佐々木健 尾崎真人 長田勇
工藤貴之 戸田裕士 岩井裕一
千葉宏樹 大野はるひと 金慶皓 外川吉輝
坂巻喜美子
韓国伝統民族食堂烏鵲橋
韓国家庭料理ハレルヤ
韓国貸衣裳店ソワレ 韓国伝統楽器専門店BBD
劇団若草 日本画廊 L画廊 (有)カイカイキキ
喫茶シュベール 富士ペット 平塚市美術館
浅草花やしき シネマアートン下北沢
東京港筏(株) 汚点紫
京都造形芸術大学 一橋大学
東京都現代美術館
崔舜浩 金用旭 鄭炳勲 田信岩
金炳千 慶尚大學校
韓国美学研究会 木浦漁港共同組合
珍島郡七田里の皆さん
配給・宣伝:シネマチック・ネオ |
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2001年9月11日と1945年8月15日。
二つの帝国の崩壊に、私たちは何を見たのか?
時空を超えてさまよう魂のドキュメンタリー
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<解説>
2001年9月11日から5年・・・21世紀、世界は、そして日本はどこに向かっているのでしょうか。現代社会を覆う出口の見えない不安の中、この世界の自由と希望を根源的に取り戻すため、かつて天皇コラージュ作品で日本のタブーを揺るがせた異端の美術家・大浦信行が、5年の歳月をかけて恐るべき新作ドキュメンタリーを完成させました。
映画の名は『9.11ー8.15 日本心中』 。
この映画は、現代日本のありようを、2001年9月11日に起きた米国同時多発テロとの関連で見つめ直し、ドキュメンタリーと象徴的な映像の融合による新しい表現によって、あるべき日本と世界の姿を模索しようとした作品です。極限まで研ぎすまされた映像と音声のなかに、真の「自由」を求めさまよう、出演者たちの魂のさすらいが浮かび上がってくるような、神話的ロードムービーとして完成したラディカルなドキュメンタリー映画です。
映画の中では、元日本赤軍リーダー・重信房子を母に、パレスチナ解放闘争の闘士を父に持ち、数奇な運命を生き抜いてきた重信メイと、戦後日本の文化状況を鋭く批判し続けてきた美術批評家の針生一郎、それぞれの旅を主軸として、美術批評家の椹木野衣や思想家・鵜飼哲、哲学者・鶴見俊輔の各氏による対話や、韓国の抵抗詩人・金芝河の語りなどを通じ、私たち人類が進むべき道を探ってゆきます。
また、藤田嗣治の戦争記録画『アッツ島玉砕』を取り憑かれたように模写する男(島倉二千六)の姿を通して、戦時中日本で多く描かれた「戦争記録画」が抱え持つ問題を、9.11以後の世界が抱える困難と重ね合わせ、それを、人間の魂が根源的に求める「自由」の問題として捉え直してゆきます。
そして、テーマを追求するプロセスを、通常の対談やインタビュー、あるいはルポルタージュの形式で描くのではなく、東アジアの象徴的な風景や、戦争記録画、河原温、山下菊二、村上隆などの戦後?現代日本のアバンギャルド美術、幻想的なドラマ、韓国シャーマンの「恨」の舞い、そして魂の老舞踏家・大野一雄氏の渾身の舞踏などの圧倒的な映像を織り交ぜて描いていきます。
そうしてこの映画は、「体感する思想映画」としてめまいにも似た覚醒を観る人に与える、未曾有の作品として完成しました。
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<あらすじ>
2001年1月、老美術批評家、針生一郎は、残り少ない己の人生をかけ、最後の旅に出立した。批評家として闘ってきた敗戦後日本の状況を、痛みとともにもう一度たどり直すべく、かつての盟友や、若い思想家たちを訪ね歩く旅が続く。
同じ頃、1973年にパレスチナで生まれた重信メイも旅を始めていた。メイの母親は、かつて世界を震撼させた日本赤軍のリーダー・重信房子。父はパレスチナ民族解放運動の闘士だったが、闘争の渦中で暗殺された。彼女は生まれ育ったレバノンを離れ、母の国、日本にやって来た。そして、アラブと日本に引き裂かれた自己のアイデンティティを探す旅を開始したのだった。
さらに他方、この現代に日本の「戦争記録画」を黙々と描き続ける男がいる。彼は何かに取り憑かれたように、敗戦後日本のあり方を、「戦争と死」の絵を描きながら執拗に問い続ける。
そして2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが発生した。9.11を契機にして、彼らの旅が加速していく。9月11日のニューヨークの青空と、1945年8月15日、日本無条件降伏の日に日本が体験した青空の、奇妙に似通った光景が、彼らを遠く隔たった時空の間に横たわる闇に、奇妙な白昼夢とともに迷い込ませる。
いつしか針生一郎と重信メイは、導かれるように朝鮮半島に足を踏み入れていた。そこには日本と位相をずらしながらも、根源的な魂のありよう、「東アジアの原型」が、密かに息づいていると言う。そして、その韓国の地に住み、苦難に満ちた人生を生き抜きながらも希望を絶やすことなく「東アジアの原型」を生命を賭けて求め続ける詩人・金芝河。いくつもの川の流れがやがて同じ海に流れ込むように、針生一郎と重信メイ、それぞれの旅が、ついに金芝河に行き着いた。
彼らが時空を超えた懐かしい出会いを果たした時、彼らの発する闇からの光が、現代日本、そして世界の姿をゆっくりと浮かび上がらせてゆく。そこに見えてくるものは、希望だろうか、絶望だろうか・・・ |
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<コメント>
『9.11-8.15 日本心中』に寄せられたコメント(同不順)
映像の荒野を彷徨う旅人たちは、グローバリズムの網の目から逃れる道を探す。
かつて、このような映画が存在しただろうか。
鶴見俊輔(哲学者)
こんな映画が可能なんだ。驚いた。これは思想映画だ。哲学映画だ。国家、戦争、天皇制、アメリカについて語り、各人の歴史、人生を語る。自分を通して語る言葉は説得力もある。この日本で、世界の現状に抵抗する人々だ。針生一郎、重信メイの根源的な魂と自由を求める旅がいい。鵜飼哲、鶴見俊輔の言葉が熱い。金芝河の言葉が重い。思わず我々も立ちすくむ。藤田嗣治の戦争記録画さえも我々に鋭く問いかける。〈反体制〉という言葉を久しぶりに思い出した。その戦い様に興奮した。反体制だが決して反日ではない。だって、これだけ日本と天皇制にこだわり、熱く語っている。ちょっと痛い。そして、日本とともに心中しようとまで思いつめる。
心中は究極の愛だ。それほどまでにこの日本を憂い、この日本が愛おしいのだろう。その愛に感動した。
鈴木邦男(文筆業、一水会顧問)
魂の根源を揺るがす対話と妖しい湿気を帯びた光景が濃縮された傑作である。東京の水辺とソウルの市街を東アジアの原風景と捉えた辻智彦のカメラがいい。その原風景の中に幻視するアバンギャルド美術や戦争画、シャーマンの舞いなどが、金芝河などの稀代の知識人の言葉と火花を散らす瞬間に、眩暈に似た興奮を覚えた。やがてその火の粉は渾身の力を込めた思想家たちの言葉をも発火させ、見る者に真の覚醒を迫るのだ。
佐藤真(ドキュメンタリー映画監督)
大浦信行の新作『9.11-8.15 日本心中』は、前作『日本心中』(2002年公開)にも劣らぬ、圧巻の出来だった。美術評論家・針生一郎と、彼が出会う対象との会話を撮影隊が追うというのが当初の恰好だが、それは「非連続」の組成によって染め上げられていて、脱体系的である。
大浦は本作で重信メイに、自作の文章を朗読させているが、それら日本の現状の転覆を志す主唱でも、難解な文意ながら、そこにベンヤミン型の静止的弁証法の痕跡が明確に認められるのだ。その「非連続」によってこそ、思考が湧き上がり、無限の「星座」づくりの可能性が刺激的に転写されていく。
そうした用意周到に施された装置の合間を縫って、やがて金芝河との会話が蝶番になり、ナヴィゲーターが重信メイへと移っていく。幸運にも重信メイは、金芝河から「禅譲」を託されたのだ。針生という時間放浪者から、重信メイという、運命的に空間放浪をしいられた女性への禅譲。
この金芝河場面からの遡行を介して、作品細部に様々な作用が起きてくる。たとえば15年戦争における日本の戦争責任、半島起源の天皇家、「在日」詩人の感情の持続と「恨(ハン)」についてなど。また、「聖なる廃墟」としての大野一雄の手が喝采の仕草と、波の終焉の模写、その双方を描きながら、空間を別次元の神秘へと切り裂いていく、その慄然たる時空の開示。「想像力」だけが、このロードムービーの組成をつなぐ作用力となって東アジアの民衆の根源=混沌に立ち返り、暴力的に転覆させよ、と指し示す。
幽玄な画面の中から立ち昇る映像の変転/間の創造/卓抜な音声処理/意味要素の点在・・・。真摯な思考者たちが現前していながら、どこか作品の奥底で次元のちがう舞踏やざわめきが起こっているような妖かしのフィルム。それを前にして鏡面化された「われわれ」は、彷徨者の姿で浮かび上がることになる。
作品は、「われわれ」に想像力の参加を求めている。そして「歴史」を、「根源」を、「民衆」を、獲得した自由な精神で捉え返せ・・・そう静かに示唆している。
阿部嘉昭(映画評論家)
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<出演者プロフィール>
針生一郎(はりう いちろう) 美術・文芸評論家
1925年、宮城県仙台市に生まれる。1954年、東京大学大学院美学科卒業。戦中、学生時、「日本浪漫派」の保田與重郎に強い影響を受け、和歌などの詩作を通して万葉集、古事記の世界に魅入られる。
戦後は転向し、1953年共産党入党、同時に戦後美術批判を展開するが、1960年安保闘争では共産党指導部を批判し除名される。1962年、花田清輝(文芸評論家)、瀧口修造(詩人・美術評論家)、岡本太郎(画家)らとともに、権力構造から払拭された新しい日本の秩序と芸術創造のあり方を模索し、美術・文芸・社会評論を通してそれらの具現化をめざす。又、ベンヤミンへの傾倒のもと、ダダイズム、シュールレアリズムの理論を手がかりに、権力が造り上げた構造的暴力としての「生者の歴史」ではない、もう一つの「神話性」と「古代性」、「呪術性」に裏打ちされた民衆のエネルギーの結集によって造り上げられる歴史の概念による、横の拡がりをもった「死者の歴史」の視点に立って、この日本社会の制度を変革しようと試み続ける。そしてまた、アジア・日本の民衆の、底辺からの視点によって生まれる民衆芸術運動を提唱し、その確立に尽力し、今日に到っている。
その発言は、戦後より今日まで一貫して言論界に強い影響を及ぼし、特に若い芸術家の思想的支柱としての精神的支えとなっている。たえず時代の深層に潜む問題にメスを入れ、深い洞察力からくるその発言は、時代の矛盾を突く。そのような「行動する批評家」としての針生一郎の、戦後50年間にわたる批評活動に対して、近年、再評価の気運が高まっている。
展覧会の国際プランナーとしても活躍。1966年ベニス・ビエンナーレ、1977年サンパウロ・ビエンナーレコミッショナー。2000年光州ビエンナーレ「芸術と人権」展のディレクターを務める。2002年には『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』が公開され、大きな話題を呼んだ。また、この映画に感銘を受けた若松孝二監督は、自らの作品『17歳の風景 少年は何を見たのか』(2005年)に、語部として針生氏を登場させている。今回の映画上映を含め、針生氏の活動は現在進行形の事態としてますますその重要性を増している。
重信メイ(しげのぶ めい) ジャーナリスト
1973年、レバノンに生まれる。母は元日本赤軍リーダー・重信房子。父はパレスチナ解放運動の闘士だった。しかし父は、彼女が幼少の頃、イスラエルとの闘争の過程でミサイル攻撃により暗殺された。彼女の出生はどこにも届けられず、28年間国籍も無かった。1997年、ベイルートのアメリカン大学を卒業後、同大学国際政治学科大学院に進学。2001年3月5日に日本国籍を取得し、4月3日初めて日本の土を踏んだ。
今回の映画では、登場人物たちあるいは風景のあいだをさまよい、結びつける中心的人物であり、「現代の巫女」ともいえる存在で登場。人類の哀しみの記憶を内蔵した彼女は、想念の世界に飛翔し、溶け合いながら、再び現実世界に着地して素顔の自分をさらけ出し独白する。その過去と未来、夢想と現実、虚無と希望、断絶と連帯、それらを具現化する存在として描かれている。そして、その映像的行為のなかから、彼女の心の深層に潜む複層的ファクターが、この現実のただなかに表出され、世界の表皮を突き破る。
現在、彼女は自身の過酷で数奇な人生の経験を通して培われてきた弱者や少数民族、マイノリティーに注ぐ眼差しに導かれて見えてくる、米国主導の世界政治とグローバリズムの根本的な過ちに異議を唱えるべく、国際ジャーナリストとして活動し、活発に発言を続けている。
鵜飼哲(うかい さとし) フランス文学・思想フランス文学・思想。1955年生まれ。京都大学大学院文学部卒業。現在、一橋大学大学院教授。
現代を代表する哲学者ジャック・デリダのアジアにおける高弟にして、現代文学の「夜」の部分を担った反時代的な作家ジャン・ジュネ研究の泰斗。四年半のパリ留学を終えて日本に戻ったのは1989年2月、折しも昭和天皇裕仁の死とその葬儀の間の時期だった。以来、現代思想界におけるパレスチナ支援運動の代表的存在であり、パレスチナの映画作家ミシェル・クレイフィとの出会いと「豊穣な記憶」委員会の活動、イラク戦争批判、ホロコーストの記憶映画「ショアー」の日本における上映、「国際作家議会」への参加、また、韓国・朝鮮の人びととの思想、運動的交流の架け橋など、時々に彼の類い希な理路と熱意は人を動かしてきた。これらの行為を支える基軸として、峻厳な哲学、繊細な文学、ラディカルな運動、幅広い交友がこの人のなかに自然に同居している。
そして、日本という国家と民族の空間に封鎖された、硬直した制度としての近現代の解体を計りながら、そこからも遠く離脱し、次第に、世界がその内部に孕み持つ「異境」へと突き進んでいく。その行為の連鎖を通して、やがて、人類が抗いがたく抱え持つ根源的な諸矛盾に向かって「螺旋する思想」を拠り所に、静かにその活動を開始する。
原則をゆるがせにせず、みずみずしい感覚で現代世界を論じ、発言を続けるその彼がある時ふと漏らした言葉がある。
「本当の『テロリスト』はアメリカであり、イスラエルであり、日本であり、我々はみんな『テロリスト』の『人質』である。そんな『人質』たちを解放するために、パレスチナ人は闘っているのだ」。彼は今日を生きる思考者である。
著書に「抵抗への招待」「償いのアルケオロジー」「応答する力」、高橋哲哉との共著「〈ショアー〉の衝動」港千尋・西谷修との共著「原理主義とは何か」訳著ジュネ「恋する虜」デリダ「盲者の記憶」「他の岬」フィヒテ、ルナン、バリバール「国民とは何か」(共訳)他。
椹木野衣(さわらぎ のい) 美術評論家
1962年埼玉県秩父市生まれ。同志社大学文文学部卒業。多摩美術大学美術学部助教授。
代表著書『日本・現代・美術』では、現代美術を日本・現代・美術に分解して再構成し、日本文化の精神性と一般に思われているものが、実は「未完の近代」である日本という場所の分裂性を覆い隠すイデオロギーであることを、美術の枠にとどまらない多くの論評に基づいて、執拗に暴きだした。
その視点の持続として、「戦後美術」は、いまだ歴史を持つことなく、反復と忘却に終始する「悪い場所」のまわりで、ひずんだ円環運動を描くに終始する他ないのだという論へと展開していく。
この映画では、そのような問題意識を抱えながら、9.11直後の緊迫した情勢のなか、私たちの平和に対する怠惰な意識を、「内なる戦争」として捉え直し、挑発的に警鐘を鳴らしている。
著書に「シミュレーショニズム」、「日本・現代・美術」、「平坦な戦場でぼくらが生き延びること」、
「『爆心地』の芸術」、「戦争と万博」他。
大野一雄(おおの かずお) 舞踏家
1906年北海道函館市に生まれる。戦前より石井漠に師事し、モダン・ダンスを学ぶ。次第に日本独自の精神風土から生まれる肉体表現によって、西欧モダニズムダンスからの脱却をはかり、前衛的な活動を展開していく。そして、日本、アジアの地域性に根ざしながら、そこからも脱却した精神と肉体の合一から生まれる表現を通して根源的普遍へと到り、大野一雄独自の内的宇宙を構築する「舞踏」へと昇華させていった。
それらは、追憶から生まれる再生の儀式として「ラ・アルヘンチーナ頌」に、また、母の胎内をまさぐる「わたしのお母さん」に結実されていった。土方巽、笠井叡の師でもあり、孤高の存在は、多くの人々に影響を与え続けている。肉体の衰えが、逆に純粋さを昇華させていく空前絶後の舞踏家である。
鶴見俊輔(つるみ しゅんすけ) 哲学者
哲学者。1922年東京生まれ。15才で渡米、ハーヴァード大学哲学科卒業。アナキスト容疑で逮捕されたが、留置場で論文を書きあげ卒業。少年・青年期において、日本とアメリカという、全く異なる世界観と言語のもとで人格形成を行ったという事実は、後の思想家としての行動と言説を決定づけた。戦中交換船で帰国、海軍バタビア在勤武官府に軍属として勤務。
戦後まもなく、戦争によって混迷に陥った日本人の思想の建て直しをめざして、丸山真男、武谷三男、都留重人らと、1946年「思想の科学」を創刊。同時代の思想運動への批評・分析を通して、思想を出来上った論として論じるのではなく、人間が社会的現実のなかで生き抜いていく際の主体的営みとして捉え、左翼や右翼といったイデオロギー自体ではなく、それを唱える人の内面に即して思想を論じる視覚を確立する。
また、「共同研究、転向」においては、転向を自分自身の問題として受け止め、戦中の自分の意識の状況を転向と認めるという自己洞察から出発した。その真摯な眼差しを基底に宿しながら、論は構築されていった。共同研究の主な対象は、非転向の立場に残っている人びとの側から、転向者を追求し落しめるという動機よりも、戦前の自由知識人の軍国主義支持への転向であり、敗戦後の軍国主義者の平和主義、自由主義への転向であった。その研究は当然の帰結として、日本の自由知識人の集団の崩れ方を自覚し、記録することとなっていく。
その「転向」論に不備があったとし、近年の「転向再論」では、転向を「アイデンティティー」の喪失として捉えるのではなく、「インテグリティ」(統合性)という規範をもとに考えることによって、非転向への不毛な固執を避け、転向前と転向後の思想の継続への確認作業にその主眼が置かれている。
1956年に提言された「限界芸術」論は、今日の混迷する芸術の状況をすでに予見し、それが抱え込む問題を指摘して啓示に満ちている。その限界芸術は、生活と芸術の周縁にある人類の芸術の根源に焦点を合わせ、暮らしとも見え芸術とも見える縁の部分が限界芸術であるとして、落書き、雑談、アダナ、かるたとりなどが分析の対象となっていく。
それらの行為を通して純粋芸術と大衆芸術を相対化し、隅っこにおしやられたもの、芸術と非芸術の識別がつかない境界に位置するもの、誰の目にも忘れ去られたままになっているものを見詰めて論を展開していく。人は子どもの遊びを通して限界芸術に触れ、その後機会を得て大衆芸術、純粋芸術に近づいていく。この二つの芸術の発展の契機を握っているのが限界芸術なのだ。そのような独創的な視点と思考方法は、アメリカで受けたプラグマティズム(実証主義)の思想から多大な影響を受けたことに起因し、それが彼自身の身体を還流し血肉化されていったものだった。自分の身近にある生活のものごとをブリコラージュし、断片を練り上げるように思考していくその態度は、60年安保改定に反対し、市民グループ「声なき声」の結成や、65年、ベ平連への参加へと受け継がれていく。
近年では、「憲法九条の会」を加藤周一、大江健三郎らと結成し、再軍備に向かって大きく舵を切りつつある今日の日本の現状を鋭く批判し、警鐘を鳴らし続けている。その彼が語る。「日本の近現代が置き去りにしているものを拾い集め、それが与えられた社会の中でどのように生きているかに関心がある。」ここに「日本の良心」が蠢いている。
著書に「鶴見俊輔集」(全12巻)、「戦後日本の精神史」、「戦後日本の大衆文化史」、「アメノウズメ伝」、「限界芸術」、「太夫才蔵伝」他。
金芝河(キム ジハ) 詩人
1941年、韓国・木浦で生まれる。ソウル大学文理学部美学科入学後、李承晩政権を倒した「四・一九革命」に参加。1970年6月、朴軍事独裁政権下で、権力の腐敗を痛烈に風刺した長編詩『五賊』を発表し、反共法違反で逮捕。同年12月、民族の慟哭のような詩集『黄土』を刊行。1972年、詩『蜚語』で再び逮捕、投獄。1974年、学生による蜂起計画を指導したとして、軍法会議で死刑宣告を受ける。世界中の文化人たちの救命運動が繰り広げられ、1980年12月の刑執行停止で釈放されるまでの8年間、獄中生活を送った。出獄後は「生命」に対する畏敬の念を謳い、84年に出版されたエッセイは「生命思想」を開く最初の書として評価されている。その後、核問題、有機農業運動、消費者共同体運動、環境保護運動などにも携わる。1960年代以降、反独裁民主化のために果敢に闘い、自己破壊をくり返してきた金芝河の、絶望的な現実を生き抜いてきた者のみが持ち得る絶対的なリアリティをもった言葉がいま、天啓のようにこの空間に響いてくる。
「現代の資本主義、地球文明は“Big Chaos"(大混沌)に至っています。今ほんとうに必要なのは、人間と神と主体の統一的な再発見なのです。主体でありながら他者でもあるような人間の内部に、天と地と人の三極がひとつに統一された『果てしなく広い開放的主体』としての『新人間』を発見していくことです。『他者化する主体』や『主体化する他者』を通しての『世界化する民族主体』、あるいは『人類化し、宇宙化する個人主体』でもあるような人間概念としての『新人間』を打ち立てること。そこでは民族と民族、国家と国家、陣営と陣営を超えて、互いに恩恵と愛、互いと互いが私益弘益を施す『世界母型』からくる宇宙的女性主義に導かれた『宇宙音楽』を奏でる場と、その秩序が再創出されてきます。そのような世界と自然に対応する理念の確立こそ、私が希求してやまないことなのです。」
今回の映画の基底音ともなっている、金芝河の発するこういった言葉の中にこそ、私たちの身体を縛りつけている「世界」という概念と、制度がもたらす近代的自我の幻想を切断する糸口が秘められている。そのメッセージは、東アジアの一角から放たれた、あらたな社会の「結合」へのイメージを湛えた言葉として、映画を観る人の心に深く染み入っていくだろう。
島倉二千六(しまくら ふちむ) 戦争記録画を描く男
1940年新潟県に生まれる。版画家として勉強するかたわら、20歳で東宝へ入社。装飾美術を多く手がける。 その後、黒澤明監督、実相寺昭雄監督、伊丹十三監督等の映画などに参加。 1992年度日本アカデミー賞協会特別賞を受賞。 アトリエ「雲」を主宰し、空や雲をテーマにした製作活動を行なっている。
岡部真理恵(おかべ まりえ) 少女
1984年東京都生まれ。8歳の時、劇団若草に入団し、基礎演技、クラシックバレエ、ピアノなどを学ぶ。
16才の時「日本心中」(2001)のドラマ部分準主役に抜擢され、可憐さの中にも芯の強い少女を演じ、哀しさに彩られた類い稀な演技力で日本人の精神の古層に眠る女性像を表出させた。
続いて出演した本作では、重信メイの分身的な存在から出発しながら、やがてそこからも抜け出て日本と朝鮮を結ぶ「シャーマン」という難しい役を演じきった。そこから滲みだす「恨」の心は、映画に深度と奥行きを与えている。
<映画の中に登場する絵画作品の作者について>
山下菊二(やました きくじ)
1919年、徳島県に生まれる。19才(1938)の時、日本のシュルレアリズムの指導者、福沢一郎の絵画研究所に学ぶ。ここでボッシュやダリ、エルンストの作品を知り、衝撃を受ける。
20才(1939)の時、招集、現役入隊する。〈大日本帝国陸軍の一兵卒として〉中国南部での日中戦争に送り込まれた過酷な戦場体験は、多感な一青年にとってあまりにも重く、戦争従犯者としての責任という意識は、生涯の制作課題となる。
33才(1952)の時、小河内ダム建設反対の山村工作隊を支援するための文化工作隊の一員として、小河内村に赴き反対運動を展開する。34才(1953)、山梨県あけぼの村における貧農と地主の闘争の記録を、モンタージュ風に描いた『あけぼの村物語』を制作。この作品を同年開催された第一回ニッポン展に出品する。
1950年代に「ルポルタージュ絵画」と呼ばれたこの『あけぼの村物語』を含む一連の作品群による「新しいリアリズム絵画」は、60年代初頭のネオ・ダダ、反芸術と共に、戦後日本の閉塞感と極限状況を見事に写し出している。
そして土俗と因襲、怨念と抑圧がおどろおどろに渦巻く世界を、地獄極楽図のように残酷だが、紙芝居のようにユーモアを含んで再構成し、阿波人形浄瑠璃や恵美須人形、ジンタをひびかせるサーカスなどの日本のフォークロアが、グロテスクとエスプリを交錯させて表現されている。そこにはシュルレアリズムをドキュメンタリーの方向に超えながら、共産党の紋切型のリアリズム理論に対抗しようとした山下の一極限がある。またその内部には、モンタージュされた諸要素から観衆が自由に物語を読みとれる多義性をはらんでいて、根源的な生命の意識を突き抜けて立ち表れてくる死者たちと一体化している。
その後も「松川事件」や「狭山裁判」などの社会的題材を取り上げ、現代日本史の不条理な構造矛盾が、実は天皇制を頂点とする巨大な暗黒の制度によってもたらされていることを、鋭く指摘し続けている。
生前から多くの若い世代に影響をあたえた彼の道程と作品は、その死後も尖鋭な思想にもとづく芸術、芸術制作を通して形成された思想を求める人々の、かけがえのない指標となっている。
藤田嗣治(ふじた つぐはる)
1886年、東京府牛込区に生まれる。
父嗣章は、文豪森鴎外の次の軍医総監を務めた。1905年、東京美術学校(現東京芸大)西洋画科に入学。
1913年、パリ到着。1919年には、サロン・ド・ドートンヌに6点出品し、全点入選を果たす。1922年には早くも審査員となる。モンパルナスにアトリエを構え、モディリアニ、スーチン、ピカソ、パスキンらと親交を結び、次第にパリ画壇の寵児となっていく。オカッパ頭にロイド眼鏡という独特の風貌でパリを闊歩し、美術界ばかりでなく社交界でも人気を集めた。裸婦、猫、少女などを題材として選び、その「乳白色の肌」は、西洋画の模倣でも日本画でもなく、藤田独自の絵画世界の表出としてパリ画壇の絶賛を浴びる。
1940年、ドイツ軍の侵攻によって陥落直前となったパリを脱出して、7月日本に帰る。帰国後に藤田が描いた『ノモンハン事件』は、1941年第二回聖戦美術展に出品され、この作品を起点として彼による大量の「戦争記録画」が制作、加速されていくこととなる。憑かれたように昼夜を問わず描き続ける藤田の戦争記録画は、肉の塊としての「死の相貌」だけが累々と画面を支配し、人間を「肉体」として捉え、その肉体の蠢くさまの「器官なき身体」という極限状況をしっかりと見据え、描ききっている。そこには、自己の内部を空洞化させ、次いで自己を拡散し、膨張と収縮をくり返していく私たちの姿の投影がある。
『アッツ島玉砕』や、『サイパン島同胞臣節を全うす』によって、明治の移植された制度としての近代の中、さらなる美術という「内なる制度」が、戦争記録画によって初めて西洋からの借りものでない、真にリアリティーを持った「民衆」という主題を見い出し得たという逆説。それは皮肉にも、日本近代絵画の一つの到達点でもあった。そこから、近代日本の「自画像」が密かに浮かび上がってくる。だから藤田は、戦後へと繋がる、自己分裂を起こし、分断、分節されていくていく自己と、「肉体化する世界」とを、戦争記録画によって、いち早く予兆していたと云える。それが天皇制に支えられた帝国日本の、大アジア主義による侵略戦争の名のもとに描き出されてきたことは不幸な事実ではあるけれど、そのような形でしか日本の自画像や民衆といった主題を見いだし得なかった日本近代の歪みとねじれもまた、この戦争記録画によって露になってくる。
魔性をおびて、狂気となって、人間存在の根源的な魂の叫びにまで昇華された藤田の戦争記録画が、私たちに提起する問題は、未だ出口を模索し続ける現代の私たちに鋭く突き刺さってくる。
戦後は一転、軍部権力に協力し、侵略戦争を賛美した戦争犯罪者として断罪される。
1949年、「日本画壇が国際的水準に達することを願う」という捨てゼリフとともに羽田を出発し、アメリカ経由でパリに辿り着く。その後二度と日本の土を踏むことはなかった。
1955年、日本国籍を抹消、フランス国籍を取得する。1968年チューリヒ州立病院で死去。 |
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<スタッフプロフィール>
監督・脚本・編集:大浦信行
1949年富山県生まれ。19才の時より画家を志し、絵画制作を始める。次いで24才の頃より映像制作を始める。その後、1976年より1986年までニューヨークに滞在。その間、画家・荒川修作のもとで7年間助手をつとめる。1986年帰国後、彫刻制作を始める。一方、昭和天皇を主題とした版画シリーズ「遠近を抱えて」14点が、日本の検閲とタブーに触れ、作品が富山県立近代美術館によって売却、図録470冊が焼却処分とされた。これが当時世間を騒がせたいわゆる「大浦・天皇コラージュ事件」である。1994年それを不服として裁判を起こすも、一審・二審をへて、2000年12月最高裁で棄却とされ全面敗訴。この天皇作品問題を通して、日本における「表現の自由」、天皇制とタブー、検閲について、社会・美術・言論界に問題を提起した。これに続く映像作品『遠近を抱えて』(1995年 87分)では、天皇作品問題を契機としながら、日本近代の闇と、現在進行形で浮かび上がってくる日本社会のねじれと歪みを、自己の無意識の領域に還元し、私的で主観にこだわり続ける映像として、皮膚感覚を通して有機的に捉え直そうとした。その継続さるべき延長線上に、今度は自己と「他者性」の相関を縫って見えてくる日本を、美術・文芸評論家針生一郎を主人公に据え、錯綜するイマジネーションのタペストリーのなか、歴史の古層にまで降り立って提示しようとしたのが映画『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』(2001年 90分)であった。2002年にシネマ下北沢で公開されたこの映画は、単館レイトショーとしては異例のヒットを記録し、シネマ下北沢でのアンコール上映をはじめ全国各地のアートシアターや大学、美術館などで順次上映。大浦の表現活動は新たな領域に入った。
そして今回の映画『9.11-8.15 日本心中』では、重信メイというもうひとりの新たな主人公を得て、渾然一体となった自己の無意識と歴史の古層から汲み上げた想像力を、激動する現在の世界に真正面からぶつけ、あるべき未来を指し示そうとしている。立ち止まることのない大浦の表現は、早くも次回作の構想に向かっている。
*遠近を抱えて(1982?1985) 連作の一部(リトグラフ) 大浦信行
撮影・編集:辻智彦
1970年和歌山県生まれ。日本大学芸術学部卒業後、TV番組制作技術会社に入社。主にドキュメンタリーの撮影を手掛ける。大浦監督作品を前作『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』に続いて担当する。前作『日本心中』の撮影により日本映画撮影監督協会JSC賞審査員特別賞受賞。
録音:川嶋一義
1947年岡山県生まれ。1975年岩波映画製作所を退社し、以後フリーとして活動。「ウンタマギルー」での全編同時録音、「岸和田少年愚連隊」では風防を外したマイクによる移動収音など、常に大胆な録音を試みる。その手腕は最新作「KAMATAKI」(監督:クロード・ガニオン)にも遺憾なく発揮されている。
韓国語監修:古川美佳
1961年東京生まれ。1984年早稲田大学教育学部卒業。1991年大韓民国延世大学語学堂卒業。 韓国美術・文化の深層の闇に分け入る中から、「民衆」という視点を確保し、神話的日常がその内部に密かに隠し持っている豊潤な埋蔵資源を足掛かりにして、新たな東アジアの恊働する文化の地平を切り拓く。 |
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