大野一雄 ひとりごとのように
Butoh Dancer Kazuo Ohno


追悼 大野一雄
舞踏家、大野一雄さんが2010年6月1日逝去されました。
御冥福をお祈りすると共に、追悼の意を込め、
ドキュメント映画『大野一雄 ひとりごとのように Butoh Dancer Kazuo Ohno』を上映します。


大野一雄は、無我の境地を踊る。東洋の空を、無の世界を踊る。風のように踊る。
2005年/カラー/DVCAM/ステレオ/100分/日本


<スタッフ>
撮影と監督 大津幸四郎
   (ドクメンタリ映画/第1回監督作品)

撮影/大津幸四郎 松尾秀一

録音/守屋英一 
音楽デザイン・ピアノ演奏/本田成子
編集/後閑信弥 
MA/データ・アート
プロデュース/山口一也 木暮優治

協力/大野一雄舞踏研究所
   パークタワー・アートプログラム
   飛騨世界文化センター


製作・配給/クエスト

photo C Naoya Ikegami
<出演>

 大野一雄

 大野慶人  溝端俊夫   

 ジョアン・ソレル   大野一雄舞踏研究所研究生 

 磯崎新(織部賞選考委員)    松岡正剛(織部賞選考委員) 

 梶原拓(岐阜県知事)    大倉正之助(鼓)

 佐藤陽子(ヴァイオリン)      大野悦子(衣装)
<ストーリー>
2000年、大野一雄は腰を打ち、歩行不能におちいる。やむなく、病院で治療を受ける。
数日後、激痛が治まると一雄は舞踏研究所に逃れ、徹底的な身体の鍛え直しから再生の道をスタートさせる。
2001年、一雄の子息、大野慶人の舞踏をめぐる思索とWorkshopから映画は始まる。ワーク・ショップでは一雄も踊る。床に伏し、転がり、全身で舞踏にぶつかっていく。何としても、もう一度自分の踊りを踊りたい、その欲求と生来の強靱な意思とが、一雄を回復に導く。
95才の誕生日を祝う舞台公演の話が持ち上った。公演に向けてのリハーサルが進む。その頃、一雄に言葉の障害が起こりはじめる。日常生活の喜怒哀楽を、舞踏で表現しようとする。インタビューに踊って答える。ひとりごとのように踊る。
公演は、じっと椅子に坐った不動の構えと空間を生き物のように舞い踊る上半身や手指の表情、靜と動の対比の妙味の中で、成功裡に終った。
織部賞受賞のため、六百キロの列車の旅に出る。車椅子の旅の不自由さも意としない。
受賞後のアンコールに応えて、踊る。一雄の高揚はすさまじいばかり。その覇気は舞台に溢れ、客席を圧倒する。賞に対する敬意と授賞の喜び、そして丁寧な返礼の舞踏は、観客の祝福の拍手に包み込まれる。
大野一雄はいつまでも踊り続ける。
<プロフィール>

大野一雄(Ohno Kazuo)

1906年、北海道・函館に生まれる。
土方 巽と共に舞踏の生みの親といわれる。土方演出で「ラ・アルヘンチーナ頌」(1977年初演)「わたしのお母さん」(1981年)「死海」(1985年)等の代表作が生まれる。1980年、「ラ・アルヘンチーナ頌」「お膳また胎児の夢」をさげて、ナンシー国際演劇際初参加以来、ヨーロッパ各地をはじめ中南北米大陸、オーストラリア、アジア、イスラエル等で公演、ワークショップを開催する。舞踏はBUTOHと呼ばれ、大野一雄の公演は全世界的に注目されるようになる。1986年、土方 巽死後、大野慶人演出で「睡蓮」(1987年)「蠢びらき」(1988年)「花鳥風月」(1990年)等の作品を発表する。1991年には、映画詩「魂の風景」に出演し、自然の中で即興詩を踊る。そして舞踏詩「石狩の鼻曲り」。1993年、横浜赤レンガ倉庫のフロアー全面を使った創作舞踏「御殿、空を飛ぶ」と、スケールの大きな踊りを発表する。1994年のテアトル・フォンテにおける6回連続の「大野一雄全作品公演」も忘れられない。1999年には、第1回ミケランジェロ・アントニオーニ芸術賞を授与される。「大野一雄は舞踏を普遍的な詩の領域まで高めました。彼は私達に、いったい我々は誰なのかという問題を提起したのです」(映画監督、ミケランジェロ・アントニオーニ)

撮影と監督 大津幸四郎(Otsu Koshirou)

1934 年生まれ。
岩波映画製作所を経て、「圧殺の森」(1967年)、「三里塚の夏」(1968年)、「水俣」「不知火海」(土本典昭監督)等の水俣シリーズ、「泪橋」(劇)「かよこ桜の咲く日」等の黒木和男監督作品の撮影を行う。アレクサンドル・ソクーロフ監督の「ドルチェー優しく」、ジャン・ユンカーマン監督の「ノーム・チョムスキー」「日本国憲法」を経て、最新作「エドワード・サイード−OUT OF PLACE」(佐藤 真監督)、「三池ー終わらない炭坑の物語」(熊谷博子監督)でカメラを回している。今回の「大野一雄 ひとりごとのように」では、撮影と監督(第一回監督作品)をつとめている。