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〈スタッフ〉
監督 安海龍
プロデューサー 梁澄子
撮影 梁澄子、安海龍、朴正植 編集 田中藍子
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効果編集 金徳奎
効果編集補助 李泰官、李ポミ
音楽 張在孝、孫晟勲
歌 朴保
ナレーション 渡辺美穂子 |
制作・配給
在日の慰安婦裁判を支える会 |
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<解説>
宮城県で戦後を生きてきた宋神道(ソン・シンド)さん。よく冗談をいい、よく笑い、よく怒る。激しい気性と鋭い舌鋒、類いまれな洞察力は、中国での7年の「慰安婦」体験、半世紀におよぶ「在日」生活を通して、さらに研ぎ澄まされたものだ。
「人の心の一寸先は闇だから。オレは絶対、人を信じない」
人間不信の塊だった宋さんが、これを丸ごと受け止めようとする人々と出会い、裁判をたたかう過程で、他者への信頼、自らへの信頼を取り戻していく姿を追ったドキュメンタリー。
宋神道さんは1922年、朝鮮の忠清南道に生まれた。満16歳の時(1938年)、騙されて中国中部の武昌で「慰安婦」をするよう強制される。19歳の時に初潮を迎え、その後たびたび妊娠。漢口で子どもを産むが、慰安所で育てることはできず、近所の人に預けて岳州に移動。「部隊付き」として、応山、長安などに出かけることもあった。咸寧で日本の敗戦を知るが、行くあてもなく、「結婚して日本に行こう」という日本軍人の言葉に一縷の望みを託して日本へ。しかし1946年春、引き揚げ船で博多港に着いた途端、その軍人に放り出されてしまう。その後、宮城県在住の在日朝鮮人男性に救われ、この男性が亡くなる1982年まで共に暮らしたが、現在は独り暮らし。1993年4月、日本政府に対し「謝罪文の交付」と「国会での公式謝罪」を求めて提訴した。
この裁判を支援するため、1993年1月「在日の慰安婦裁判を支える会」が結成された。「支える会」は、代表は決めない、事務所を持たない、専従も置かない、という「ないない三原則」に則って活動した。
映画は、宋さんと「支える会」が出会い、共に泣き、笑い、歯ぎしりしながら裁判をたたかう過程、そしてこの裁判を通して宋さんが歩んだ被害回復の過程を描き出す。
裁判は、1999年10月東京地裁、2000年11月東京高裁で請求棄却、2003年3月に最高裁でも上告を棄却され、敗訴が確定したが、敗訴確定後の最後の裁判報告集会で宋さんが言う。
「裁判に負けても、オレの心は負けてない」
裁判に負けても、負けた気がしない。そう言い合える関係が、宋さんと支える会、支援者たちとの間で築かれた10年だった。
「慰安婦問題」を「問題」として捉るのではなく、「人」の視点からアプローチすることの大切さを訴える本作は、笑いと涙と拍手をさそう。 |
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<監督の言葉>
集会終了後の打ち上げの席。誕生日を迎えた「支える会」のメンバーにケーキが差し出され、宋神道さんが即興の替え歌で誕生日を祝う。「支える会」が簡単な編集をしてくれと言って私に渡したビデオテープの中にそのシーンはあった。このシーンを見た時の静かな感動が、私にこの映画を作らせる原動力となった。
ビデオに記録された宋神道さんの発言には、自身の個人的な被害を越えて戦争に反対する強力なメッセージが込められていた。それらの発言は肉体的にも、精神的にも、傷を負った宋さんが日本で過ごした50年あまりの歳月に強いられてきた沈黙の時間の中で、鋭くとぎすまされたものだった。裁判の過程は、全身に染みついてしこりとなっていた真実を世に吐き出す過程であり、自身の傷を自ら治癒する過程となった。
宋神道さんが裁判の過程を通して社会と関係を結び、人間性を回復して行く姿を、映画の中で淡々と描きたかった。宋神道さんの話だけでなく、献身的に裁判を支援してきた「支える会」の物語と共に。
この映画は、宋神道さんと「支える会」の映画である。戦争に反対し、女性差別、民族差別、階級差別などの執拗な歴史的偏見とたたかってきた女性たちの物語なのである。
宋神道さんは言う。「裁判に負けても、オレの心は負けてない」と。この発言は、「慰安婦」問題が未だ解決していないという事実を世界に知らしめる警鐘であり、共にたたかい続けようという励ましのメッセージに他ならない。
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<安海龍監督プロフィール>
戦争中の日本軍による強制連行・強制労働、サハリン残留朝鮮人、日本軍「慰安婦」、韓国の基地問題など広く手がける映像ジャーナリスト。ドキュメンタリー作品に『沈黙の叫び』、『北から来た少女』(NHK ETV特集)、『1万人のリストラ』(NHK ETV特集)など多数。 |
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