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眼前の風景といかに対峙するか。それがこの映画なんだ −−−−− 若松孝二(監督)
岡山で母親をバットで殴り殺した17歳の少年が自転車で逃走し、16日後に秋田で逮捕されるという事件があった。父親ではなく、母親を殺したということにショックを受けて、そんなことをなぜしたのかと考えてみたけれど解らない。親殺しや少年犯罪は80年代から金属バット殺人事件や酒鬼薔薇事件など、似たような事件は起きていて、時代や社会の問題だとは一概には言えないし、最も引っ掛かった、疑問に思ったのは少年はなぜ北に向かったのか。16日間で1300キロ、自転車で一日100キロ近く走るには相当なエネルギーがいるし、北に向かったのは死に場所を探していたのかもしれないが、それが確かな理由なのかどうか。そんな風に考えているうちに、少年と一緒に旅をしたいと思うようになったのがこの映画の始まり。そして、自分達はなぜ、今、ここにいるのかと、目の前の風景と対話する映画を撮ろうと思った。 |
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《スタッフ》
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監督:若松孝二
脚本:山田孝之・出口出・志摩敏樹
プロデューサー:志摩敏樹
ラインプロデューサー:大日方教史
撮影:辻智彦
撮影助手:戸田義久
照明:大久保礼司
録音:川嶋一義
編集:板部浩章
助監督:白石和彌 |
音楽:友川カズキ
演奏:石塚俊明(頭脳警察)
ロケット・マツ
松井亜由美
金井太郎
スチール:掛川正幸
メイキング:竹藤佳世
題字:柄本佑
製作・配給・宣伝 シマフィルム
制作:若松プロダクション
宣伝協力:オフィスKT 支援:文化庁 |
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《出演》
柄本佑 針生一郎 関えつ子 小林かおり
井端珠里 不破万作 田中要次 鳥山昌克 丸山厚人 |
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真のアウトサイダー若松孝二、入魂の最新作!
常に時代に先行、あるいは並走しながら数々の問題作、衝撃作を世に送り、同時代を生き抜いてきた映画人、映画ファンはもちろんのこと、その過激にして爽快な生き様に、60年代・70年代の熱狂を知らない若者達からも近年、絶大な支持を得ている若松孝二。その最新作もまた、若松孝二以外には決して撮ることのできない、独自のモチーフと手法が際立つ、ドキュメンタリー・ドラマとも言うべき作品として異彩を放っている。
なぜ人を殺してはいけないのか
2000年に岡山県で起きた17歳の少年による母親殺しの事件に想を得たこの作品は、1969年に製作された異色のドキュメンタリー作品『略称連続射殺魔』において、若松の盟友・足立正生が、主人公の永山則夫が歩み見た風景をその等身大の視線によって描き出したように、事件に関する安易な答えを封印し、「問い」は「問い」のままに、風景の中に少年が何かを見い出すのをひたすら待ち続けるという極めて困難なテーマに挑んでいる。
敗戦後60年、戦争体験の風化に抗う
ひとりぽっちの少年にも旅の途上で出会う人々がいる。「自分が17歳の時は国のために死ぬことしか考えていなかった」と語る老人(針生一郎)の戦争体験にじっと耳を傾ける少年。戦時中に強制連行されてきた在日朝鮮人の老婆(関えつ子)は雪深い里山の家に少年を迎え入れ、もの悲しい故国の歌を唄う。戦争の時代を次代に語り継いでおかなければならないという若松孝二自身の痛切な思いとメッセージが、そこに仮託される。
俳優、撮影、音楽の絶妙なコラボレーション
監督の苛酷な撮影スタイルと飽くなき要求にキャスト、スタッフが十全に応え、『美しい夏キリシマ』で鮮烈なデビューを飾った柄本佑が、ほとんど台詞がない少年役を好演。また、本作のために抜擢された辻智彦の果敢にして斬新なキャメラワークがとらえた迫真の映像、そして吟遊詩人・友川カズキが書き下ろした詩と音楽が呼応し、立ち現れるみずみずしくも峻厳な風景は、見る者に何かを語ってやまない力を持っている。
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《ストーリー》
あんたはいつも遠くから見ているだけだ・・・・・・
富士山を仰ぎ見ながら少年はそう呟き、北へ向かって自転車をこぎ出す。
若者達が群れる東京・渋谷の繁華街、朝の通勤ラッシュの人の群れに逆らうように独り歩く少年。
彼や彼と同世代が起こした事件についての新聞記事、ラーメンを食べながら母親を殺した少年について語り合う高校生達。母親や勉強部屋、自分が犯したことから身を引き剥がすようにして、ひたすら自転車をこぐ少年。
三国峠から六日町、柏崎から象潟、男鹿半島へと北上していく、その目に映るのは北の峻烈な風景だけである。招き入れられた雪洞で大人達が交わす会話、海辺の青海川駅の待合室で出会った老人が語るその青春と戦争体験、漁業の行末を憂える漁師達・・・・・・ただじっと彼等の話に耳をそば立てるばかりで何もしない少年。
そんな少年が、通りかかった里山の雪道に倒れ、救いを求める老婆を背負って家まで連れていく。その家で味噌汁をかけただけの飯をほお張りながら、朝鮮から連行されてきた老婆が唄う祖国の歌を聞き、チマチョゴリに身を包む自分と同じ年頃の少女を重ね見る。なおも続く少年の旅。竜飛岬へ、さらに北へ、もっと遠くへと旅は続いていく・・・・・・。
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監督 若松孝二
1936年宮城県生まれ。高校を中退して16歳で上京、テレビ映画の制作部で仕事をしながら独力で映画を学び、1963年、26歳の若さで『甘い罠』で監督デビュー。同作品がヒットしたことで監督オファーが殺到し、若松プロダクションを立ち上げ、製作した『壁の中の秘事』(65)がベルリン国際映画祭に出品されるなど監督としての地歩を固める。その後は大和屋竺、足立正生、荒井晴彦、佐々木守、唐十郎、内田裕也ほかの有能な脚本家、プロデューサー、俳優との共同作業により、60年代の熱い季節から今日まで常に時代のトップランナーとして数多くの問題作、名作を世に送り続ける。また、プロデューサーとして大島渚監督の『愛のコリーダ』や山下耕作監督『戒厳令の夜』の製作に関わる一方、主宰する若松プロから高橋伴明、周防正行、磯村一路、滝田洋二郎ら当代一流の映画監督を輩出するとともに、名古屋に映画館〈シネマスコーレ〉を創設・運営するなど多彩な活動を展開。近年はウィーン国際映画祭をはじめとする国内外の映画祭において特集上映が行われ、特異な生き様とその激烈にして異色の作品群により世代や国境を超えて熱い注目を浴びている。
【主な監督作品】『胎児が密猟する時』(66)『犯された白衣』(67)『赤軍?PFLP世界戦争宣言』(71)『餌食』(79)『水のないプール』(82)『キスより簡単』(89)『我に撃つ用意あり』(90)『寝盗られ宗介』(92)『シンガポール・スリング』(93)『エンドレス・ワルツ』(95)『完全なる飼育 赤い殺意』(04)ほか多数。
少年 柄本佑
1986年東京都生まれ。2001年、高校在学時に黒木和雄監督『美しい夏キリシマ』のオーディションに合格し、映画界にデビュー。03年に公開された同作品での独特な存在感と清新な演技により、第77回キネマ旬報ベストテン新人男優賞、第13回日本映画批評家大賞新人賞を受賞。また、同年より本格的な俳優活動を開始し、映画・テレビで活躍中。主な映画出演作品に『偶然にも最悪な少年』(03/グー・スーヨン)『69 sixty nine』(04/李相日)『ハサミ男』(05/池田敏春)『真夜中の弥次さん喜多さん』(05/宮藤官九郎)。公開待機の主演作に『鋼』(鈴木卓爾)がある。
老人 針生一郎
1925年宮城県仙台市生まれ。美術・文芸評論家。1945年、東京大学大学院美学科修了。大学院時代に花田清輝、岡本太郎、野間宏らの「夜の会」に入り、批評家としての素地をつくる一方、53年に共産党入党、戦後美術批判を展開する。60年の安保闘争において共産党指導部を批判して除名処分を受け、その後は行動する評論家として、美術・文学・社会の変革に向けた多岐にわたる活動によって、今日まで言論界に強い影響を及ぼすとともに、若い芸術家たちの思想的・精神的な支えとなっている。著書に「言葉と言葉ならざるもの 針生一郎評論集」(三一書房刊)ほか多数。また、その活動の軌跡と言説にイマージナルな映像を織り込んだ長篇ドキュメンタリー『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』(02/大浦信行監督)が公開されて大反響を呼んだ。本作品への出演は、同作品を観て感銘を受けた若松監督が戦後日本の荒廃と危機を今に伝える語り部として唯一無二の適役と強く希望、実現した。
老婆 関えつ子
1935年京都府舞鶴市生まれ。劇団くるみ座、劇団四季、自由演劇人集団に在籍しながら、舞台・テレビ・映画などで幅広い分野で活躍。出演作品に、舞台「ひとり芝居『瞽女春秋』」、TV「ちゅらさん」「救命病棟24時」、映画『緋牡丹博徒お竜参上』(70/加藤泰)『桃源郷の人々』(02/三池崇史)ほか多数。
撮影 辻智彦
1970年和歌山県生まれ。日本大学芸術学部映画学科在籍時に観た小川プロ製作のドキュメンタリー作品、田村正毅のキャメラワークに衝撃を受け、キャメラマンを志して93年ドキュメンタリー番組の制作会社に入社、山崎裕の撮影助手を務める。98年にフリーになり、「ザ・ノンフィクション」「世界の車窓から」ほか数々のドキュメンタリー番組の撮影を担当する一方、自主製作の映像作品も手掛け、97年には短篇映画『A
SHORT TRASH VIDEO』にてキリンコンテンポラリーアワード ’97優秀賞、『日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男。』で日本撮影監督協会JSC賞審査員特別賞を最年少で受賞。04年には『日本心中』のキャメラワークに魅せられた若松監督からの熱烈なラブコールにより『完全なる飼育 赤い殺意』(04)で初の劇映画に挑み、二作目となる本作においても斬新な手法を駆使して若松ワールドを見事に映像化している。
音楽 友川カズキ
1950年秋田県生まれ。能代工業高校卒業後、69年に集団就職で上京。中学時代から詩作を始め、岡林信康の歌に感動したことがきっかけでアコースティック・ギターを独習、自作の詩に曲をつけて歌い始める。74年にシングル「上京の状況」でデビューし、75年にファーストアルバム「やっと一枚目」、79年には初のライブアルバム「犬/友川かずき秋田コンサート」をリリース。一方、その頃から演劇や絵画への関心、関わりを深めていったこともあり、80年代は商業的には不遇な時代を過ごす。89年に護国寺の天風会館と早稲田大学にて本作品の演奏にも名をつらねる石塚俊明、ロケット・マツ、松井亜由美に加え、サックスの梅津和時、語りの福島泰樹という最強メンバーによるコンサートが催され、これを契機に音楽シーンへの復活を遂げる。「初期傑作集」のリリースを皮切りに93年以降は順調に作品を発表、根強い人気を誇るとともに、詩集や絵本、エッセイ集の上梓、競輪評論家、俳優、DJなど、音楽に留まらない多彩な活動によりファン層を拡げている。古くからの友人である若松監督の懇請により本作のために書き下ろされた絶妙な詩と曲は、北国の風景と少年の孤独な心の在り様を余すところなく伝え、その期待に完璧に応える出来栄となった。 |
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